昭和四十三年三月四日 夜の御理解
御神訓X「我が子のかわいさを知りて、神の氏子を守り下さる事を悟れよ」
信心の心得の中に「我が子のかわいさを知りて、神の氏子を守り下さる事を悟れよ」「我が子のかわいさを知りて、神の氏子を守り下さる事を悟れよ」と。子供の事をかわいくない者はないけれども、親神様がこの様な思いで、私共の上を守っておって下さるという事を、又思うておって下さるという事を、又切実に「どうぞ、氏子信心しておかげを受けてくれよ」という様な願いを持っておいでられるという事が、悟らせてもらわなければならんのだけれども、それだけではなかなかわからない。悟れない。確かに子供はかわいい。子供はかわいい。ただ、子供が教え教えにと、よかれらしと思う親の心はわかる。けれども、神様がこの様な思い、この様な思いどころじゃない、実を言うたら、まだ、それこそ千倍でもない、万倍でもない様な思いで思うておって下さるんでしょうけれども、それを悟る事がなかなかできない。そうでしょうが。けれども、こうして御教えを頂いておりますとね、信心させて頂いておると、あぁ成程ここんところを、ここがわかるから、神様の思いがわかるという、教えを頂いとかねばわからん。
そして、成程親が子を思う思い以上の思いで、私共氏子の上を守っておって下さるんだなと悟れる。という事は、どういう事かというとね、今、御祈念にかかる前に【 】の、しげおさんがここでお届けをされたんですけれども、今朝方お夢を頂いた。私の方に、親先生と正木さんが連のうてやって来た。
そして「しげおさん、ここにこういう大きな、灯籠の様な大きな堤がある。ここで、しげおさん泳ぎなさい」とこう言われた。
そこで、しかしこの寒いのにと思ったけれども、まだ水が冷たかろうと、けれども、まあ親先生が言われるからと思って、裸になって飛び込んだ。ところが案外水が温かったと。これならもういくら泳いだっちゃ、あんまり寒なかてと思うたところで目がさめた。まあ親先生ということは、まあ親の事であろう。お取り次ぎを頂く、いわば取り次ぎの、まあいうなら信心の親でもあろう。正木さんというのは、しげおさんにとってどういう事になるかというと、導きの親である。結局、私は親であるという事を表現されたんだと思うですね。所謂その親の思いというもの、親の願いというもの、ぱぁ-といい時だけは泳ぐ。けれども寒い時は泳ぎきらん。こういう事ならおかげを頂ききるけれども、例えば、金銭なら金銭上の事なら、どげな言い渡しでもびくともせんけれども、健康上の事病気になってくると、あわてて医者だ薬だと言わねばならない。言う事は同じだから。いうならば、金銭上の事であろうが、いわゆる難儀という難儀の、難儀というたら同じなのだ。その難儀の中を信心でおかげを受けていくという事は同じ事なんだ、という事をわからして下さる。
そこで体験させてもらう事はですね、こりゃあ、その気になりゃあですね泳げん事はないなあという事である。
今朝から、神愛会の先生方が皆集まってから、今日はもう朝の御祈念の後から十二時頃までひき続て、熱心に、今日は山田先生【 】あたりも一緒に入られてから信心の共励があった。中で秋永先生が言うております事はですね、とても毎朝、福岡から朝参りをしてくるなんて事はとてもできるもんじゃないと思うとった。ひと月あまりではですね、それが非常にこう不自然であった。何かお参りして帰ってくると、何とはなしに頭がぼんやりして、なかなか、ちょっと仕事に手がつかん様な状態であった。ところが最近ではですね、それがもう当たり前の事として、だんだんできる様になってきたと言っておる。初めの間は、十円の金でも参りゃあ、やっぱりお賽銭がいるけんのうやという事であった。百円のお初穂がもう本当に、まあなかなかできなかった。ところが、だんだんおかげを頂いてきてです、それ以上の事ができる様になっても、それが当たり前の事としてできる様になった。しかもそれがです、それだけの事をしよるけん時間が足りないという事もなかなければ、お金が少なくなっていきよるという事もない。そういう、私は体験というものがね、そういう事が当たり前の事としてできる様になる。「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」という様な信心がわかってくる様になる。そこに至った時初めてですね「神は我本体の親ぞ」といった様な信心がわかってくる時にです、私、初めて自分の子供を持ってみて合点せよと。自分の子供が本当にかわいいというあの実感をもって、天地の親神様は、また私共の上の事をこういう実感のそれこそ何百倍もわからん様な、大きな愛の心を持って、私共を思うておって下さるという事が、悟れるのであります。自分の子供を持って、確かに子供がかわいいという事は事実である。子供が幸せに、幸せにとこう思う思いも切実であり、またわかるのである。けれども、神様が私共の上をそういうふうにして、思うておって下さるという事は、なかなかわからないけれども、この御教えを頂いておって今わかるのじゃあない、こういう御教えを頂いておってです、いうなら堤の中に飛び込んでみて、成程その気になりゃあおかげが受けられる。その気になりゃあ楽になる。その気になりゃあこういう体験が生まれてくるという事がですね、体験が積み上げられていって、初めて私は神様の私共にかけられる願いが実感として、私共がわかってくる様になる。そこからいよいよ「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」がわかってくるのであり「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」がわかってくるにしたがって、神様の思いが切実に悟れてくるのである。問題は私共がね、その気になるまでが難しいのであります。御用でもそうです。その気になってしもうたら、楽に楽になると神様が見せて下さるんだな。神様が参らせて下さるんだなという事がわかってくる。秋永先生が十何年かの信心を通して、ようやくそこがわかってきた。いわゆる本当に「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」という様に、当たり前の事としてそれができる様に、だんだんなってきたとこう言っております。問題は、その気になるかならないかという事なんです。「あぁ、こげん寒かと泳がれん」としげおさんが言うておられたら、この寒中でも楽に泳げるという事は、わからんなりにしまいになる。いわゆる悟れんなりにしまいになる。親の心を悟れない。そういう例えば、親神様の願いの中にですね、または、信心をさせて下さる中にです、この寒中にどうして飛び込めるかと思える中にでもです、「飛び込め。ちょっと泳いでごらん。ちょっと裸になってから泳いでみてごらん」ともうそれこそ、何でもない様にして言うておられる。「いいえ」と言うとったらそれまでである。そんならというて裸になって飛び込んでみた、ところが案外これなら泳げれる。こりゃあ、泳ぐというものは夏だけの事じゃない、冬でも泳げるたいと。難儀というたら金銭の事であろうが、病気の事であろうが、難儀と名がつく難儀は、皆同じだという事が悟れるのである。どういう応用問題でも、だからできるわけである。
そこで初めて、神様の氏子にかけられる氏子かわいいという願い、親が子供がかわいいという、そういう切実な実感を持って神様の思いが伝わってくる。そこに親の思いを悟る事ができる。これ簡単に悟りを通してあるけれども、なかなかの事である。そのむしろ聞いただけでは、そりゃあそうばってんである。私共が子供を本当に思う様に、神様も思うておって下さるじゃろうか。ところが、そうして体験を積み上げていくところからです、成程神様の思いというのは、私共が子供を思う思い以上の思いを持って、天地の親神様は、氏子一人一人の事を思うておって下さるという事がわかるんですよね。
どうぞ。